忍者ブログ



[ 1 ]  [ 2 ]  [ 3 ]  [ 4 ]  [ 5 ]  [ 6 ]  [ 7 ]  [ 8 ]  [ 9
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

平成26年1月15日大阪工芸会理事会議事抜粋
場所:大阪市立工芸高等学校5号館2階会議室
時間:18:30~19:30
1.工芸高校展における工芸会の展示
  工芸会室において、2月8日9日の二日間行う。
  創立記念講演会の模様をビデオにて紹介
  記念誌「芸草」の各科パネル展示
  併設して第1回オトナ工芸魂の作品の一部展示及び
  スライドショーにて会場の模様を紹介
2.新年度の準備
  次回理事会までに、新年度の役員を各縦の会で決めて下さい。
  また、若い理事の勧誘を行って下さい。
  若い理事の勧誘については色々と意見がでましたが、
  各縦の会と各科職員と連携し、努力する事とする。
3.その他
  第2回オトナ工芸魂開催開催日程について報告される。
  会期について2日間の予定ですが、延ばしてほしいとの要望がありましたが、
  ボランティア等の拘束日数に限界があるので、準備期間を入れて3日以上は無理となりました。
  今後回を重ねて協力する人達が増えれば会期延長も考慮して行く。
以上概要です。
理事会終了後はニュー丹波にて新年会です。
最年長は昭和32年卒で、一番若い人で平成5年卒
なんと偶然にも同級生のお父さんが理事におられました。
世代を超えて盛り上がった新年会でした。
次回理事会は3月19日に18:30~から行われます。
場所は未定
PR
これは、昨年の2月頃に掲載させて頂きましたが、
「デザ
イン」が言葉になる時代が来た。
として、工芸高校をとり
あげています。
デザイナー育成の為ここに工芸が出来、
流デザイナーだけでなく、ユニークな卒業生を輩出する。
そんな学校が大阪にはあるんです。

確かに有名デザイナーも育ちました。
しかし、多くは無名ではあるけど、
自分の仕事に誇りを持ち、
工芸で育った工芸魂を持ち、
独創的でユニークな仕事をする人もおれば
みなの暮らしに密着した物作りをしている人達もいる。
一般の人は知らないが、その道の人は知っているプロ
あるいは、あの人工芸出身なんだ!
やっぱり!
て言われてしまう人もいる。
それが、工芸
工芸学園なんだ
今年は創立90周年
そしてD研創立25周年
後何年つづくのか分からないが、
工芸魂は不滅である!!!




昭和32年に写真工芸科が設置され、現在の6科体制ができる。

実習室が翌年、昭和33年(1958)に竣工する。

下の写真をクリックして拡大して下さい。



そして昭和33年は、シグマ会発足10年目

シグマ会 会誌第10号は、シグマ会 フェイスブックにて掲載しております。

https://www.facebook.com/sigmakai
建築科・建築デザイン科の縦の会であるシグマ会の平成25年度 交流会のお知らせ
平成25年 9月 7日土曜日 9:30~15:00
そうめん延ばし体験 三輪(大神)神社周辺見学
詳細はチラシを参照下さい。
当日は、古文化研究会を中心にした工芸生にも声を掛けております。
皆様ご参加下さい。他の科の方でも結構です。
お子様が参加される場合は、そうめん延ばし体験をお子様とご一緒になさるか、
あるいは別々にされるかによって料金が変わります。
昼食についても、お子様の分が不要な方等は、事前に申し込み用紙にその旨ご記入下さい。

昨日(7日)下見に行ってきました。
天気良すぎました。
麺ゆう館の周辺は、纒向遺跡(まきむくいせき)があります。
以下解説 
2009年11月に纒向(まきむく)遺跡で現地説明会が行われた大型建物跡(3世紀前半)は邪馬台国の女王、「卑弥呼の宮殿」ではないかと邪馬台国畿内説の学者たちが予測している。三輪山一帯は卑弥呼の墓ではないかといわれている箸墓古墳(はしはかこふん)をはじめ、弥生時代や古墳時代の前方後円墳などの古墳が多く残っておりヤマト王権の都だったと考えられ、さらに「卑弥呼の宮殿」と考えられる建物跡が発見されたことから、邪馬台国が三輪山一帯にあったとする説が日増しに強くなっている。
纒向遺跡(まきむくいせき)は三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての遺跡群で前方後円墳発祥の地とされている。
纒向遺跡からは農業用の大型水路や土抗の中から三輪山祭祀に関する遺物が多数見つかり、石塚古墳周濠からは祭祀遺物弧文円板(こもんえんばん)などが出土しており三輪山が3世紀以前から神の山であったことを証明している。
纒向遺跡には纒向勝山古墳(まきむくかつやまこふん) 、纒向矢塚古墳(まきむくやずかこふん) 、纒向石塚古墳(まきむくいしずかこふん)、東田大塚古墳(ひがいだおおつかこふん)、箸墓古墳(はしはかこふん)、ホケノ山古墳など邪馬台国と時期が重なる3世紀頃に築造されていたと考えられる古墳が多く残っているが、埋没した古墳がたくさんあると考えられている。
『記紀』では崇神天皇(すじんてんのう・紀元前148-紀元前29年)・垂仁天皇(すいにんてんのう・紀元前69年-紀元後70年)・景行天皇(けいこうてんのう・紀元前13年)-紀元後130年)の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)が存在したと伝えており、纒向遺跡はヤマト政権発祥の地と考えられ邪馬台国の結論は別にしても弥生時代から古墳時代の日本の中心都市のひとつであったことは間違いないだろう。

下記添付画像をクリックして拡大して下さい。



忍者ブログ   [PR]